私の「動物のお医者さん」物語

獣医師になるまで

私、荒井靖子は昭和39年4月、富山県魚津市で生まれました。
富山県立魚津高等学校から北里大学、獣医畜産学部獣医学科に入学、平成元年3月に獣医師国家試験に合格しました。

中学時代 獣医師になりたい!

「獣医師になろう」と思ったのは中学2年生の時です。当時、学校帰りによく清明堂書店で本を物色していたのですが、そのときに衝撃的な題名の本に出会ったのです。動物賛歌「動物と話ができる男の話」・・・動物と話ができるってどういうこと!?この人どんな人!? と思ったらどうしても読みたくなりました。

動物賛歌「動物と話ができる男の話」は、東武動物公園元園長 故 西山登志雄さん(かば園長)の自伝的な本で、動物とのふれあいの話がたくさん書かれていました。我が家にも私が小さいときから犬がいましたので、もともと動物は好きでした。が、「動物と話ができる」 というのは私にとって大きな驚きと衝撃でした。そして、私もかば園長みたいに動物と話をしてみたいと思いました。そしてなぜか、北海道で馬の世話をしながら、馬と話をしながらのんびり生活したいと思いました。

その話を母にしたところ、「これからの時代は女性も手に職を持たないとダメ。何か技術を身につけて資格を持ちなさい。」と言われました。動物と触れ合いながらできて資格が必要な仕事・・で、私が思いついたのが「獣医師」だったわけです。今思うと、私が夢見た仕事と獣医師の仕事はかなり違うのですが、そのときは獣医師になれば夢はかなうと信じて、「獣医師になる!」と決めたのでした(笑)。

大学受験 両親を説得して獣医師の道へ

我が家は祖母・母と2代続いた茶道教室ですので、「浪人はなし、受験に失敗したら茶道を継ぐ」 という条件で大学受験させてもらいました。茶道は嫌いではありませんが職業にはしたくないと思っていましたので、必死でした。何としても合格したいと思い、受験科目を絞るために私立大学を志望しました(お金がかかることは深く考えず・・・(苦笑))。結果的には北里大学に合格。獣医師になるレールの上には乗っかったのでした。

大学時代 獣医師になって何をしたいのか?

大学時代の劣等生ぶりはまあ見事なものですが、私は小学校からずっと大学時代もバレーボールを続けていましたので体力には自信があり・・・結局体力だけで大学生活6年間(大学4年間+大学院2年間)を突っ走ったような気がします。特に大学院研究室時代は・・・。

大学4年生

大学4年生の頃は、研究室を選択する時期とも重なり、「このままゆけばおそらく獣医師にはなれるだろうけれど、獣医師になって何をする?」と考えたときになかなか答えが見つかりませんでした。この頃には、「北海道で馬と・・・」 という夢は現実的ではなく本当に夢なんだということがわかっていました。獣医師は動物のお医者さんではあるけれど、仕事は実に様々なのです。動物病院の先生、保健所や家畜保健所などに勤める公務員の先生、共済など大動物の先生、製薬会社などの研究員などなど、獣医師とは言ってもいろいろな仕事があるのです。私は何をしたいのか・・・わからないまま、研究室を選びました。

獣医病理学教室

当時学生の間で「ダンディ吉川」と人気だった吉川堯教授率いるエリート集団、ちょっと敷居が高くて・・・といったイメージの研究室でしたが、私もやはり吉川教授に憧れて、知っている先輩もいたので、第一希望を出しました。ところが希望者が多くて・・・成績順で決めようという意見も出ましたが、公平にということでジャンケンすることになりました。幸運なことに私は勝ち残って、めでたく病理学教室の一員となったのでした。成績順なら間違いなく病理学教室には入れず、その後も今とはまったく違った道を歩いていたかもしれません。

病理学教室は小さな会社、縦社会で、大学院のこの2年間は、社会に出る予行練習だったなあと思います。研究室生活はきわめてハードでした。授業が始まる前に掃除・ミーティング、授業の後は解剖、解剖の毎日。先輩が帰ったあと、夜中に、解剖した材料の標本を作製したり、顕微鏡を覗いたり・・・「12時前に帰るなんて10年早い!」 何度も言われました。「成績は悪いし不器用だし、よく病理やってるよ」と自分でもヒシヒシと感じていましたが、私は体力だけでハードな2年間を乗り切りました。 不思議なことに嫌だとかやめたいと思ったことは一度もなく、それどころか図々しく、「就職は病理のできるところ」と決めていました。

卒業論文

研究室時代の集大成は卒業論文です。私はモルモットを使ったアジュバントワクチンの研究をしたのですが、その内容はともかく、1番つらかった思い出は・・・。今のようにパソコンが普及していなかったので、論文はすべて手書きでした。何十ページもある論文を翌朝までに書き直すように言われたのです。一字間違えるとその後の文章は全部書き直さなければいけません。ずっと緊張しながら書くので、疲れてくるとなおさら間違えてしまい、朝まで完徹でした。それが3日続きました。体も精神的にもボロボロで本当に泣きたくなりました。でも、そうしたことが後々自分の自信につながり、支えともなっていると思います。ひとつの論文を作り上げるたいへんさとともに大事なことを学んだと思います。

獣医師国家試験に向けて

そして、何と言っても獣医師国家試験に向けての勉強はとてもたいへんでした。高校受験も大学受験もたくさん勉強したつもりでしたが、国家試験はその比ではありませんでした。「6年間勉強してきても、落ちたらただの人」という恐怖、精神的な圧迫がありました。先輩方の残してくれた国家試験対策の資料と友達の支えのおかげで無事合格することができ、晴れて「獣医師」となりました。

社会人

平成元年4月、病理学を続けたいという希望がかない、製薬メーカーに就職し、毒性試験・GLP試験の病理検査に携わりました。この1年間で学んだことがこの先の研究所時代の大いなる基礎となりました。翌年5月、社団法人 北里研究所に転職しましたが、この転職を決意させたのは、当時病理学教室教授の吉川堯先生の「私と一緒に研究できるぞ」という一言と、同、助教授の故 吉川博康先生の「全面的にバックアップするから心配するな」という言葉でした。自分の能力も考えず、「先生方と一緒に病理ができる」 単純にそう思って転職しました。実際、そのとおり、私はずっと先生方に頼りっぱなし、ご迷惑をかけっぱなしで・・・でも、いつも大好きな病理学に一生懸命に取り組んでいました。

新たな夢 私も老犬ホーム作りたい

そして、これもまた単純なきっかけなのですが、研究所を辞める3、4年前でしょうか、「小動物臨床に転向しよう」と決意していました。テレビ番組の「どうぶつ奇想天外!」で何回も紹介されていた北海道盲導犬協会の老犬ホーム。「私も老犬ホーム作りたい」人のために働いた犬や、高齢でボケてきたり寝たきりになった犬・・・かわいがってはいるけれど、お仕事をされていたり飼い主様ご自身が高齢で1日中傍について面倒はみられないなどの場合に、老犬ホームがあったらいいなあと思いました。これは、私にとって、「かば園長のように・・・」と思って以来の新たな夢でした。

動物病院を作ろう

でも、老犬をみるということはいわゆる動物のお医者さんにならなければいけません。当然、臨床の勉強をしなければ、研究職のままでは老犬を診ることはできなかったのです。 そして、ボランティアの要素が多分にあるこの老犬ホームを実現するには、「動物病院」というしっかりとした基盤を築かなければならないと思いました。 ちょうど同じ頃、妹から「犬の訓練士になるために学校へ行こうと思っている」 と打ち明けられ、それぞれ立場は違うけれど、「一緒に動物病院を作ろう!」 ということになったのです。

臨床獣医師としての修行

新たな夢へのスタートを切るための準備は、つまり、動物病院で臨床獣医師としての修行をすることでした。が、それは、簡単なことではありませんでした。それまでとはまったく違った生活スタイルに変わってしまいますし、主人や娘への負担が大きく、多大な迷惑もかけることになるからです。私ひとりの考えですぐに研究所を辞めるわけにはいきませんでした。しかし、決意したのに何も行動を起こさないのは非常にじれったく・・・獣医東洋医学研究会(現、比較統合医療学会)主催の鍼灸コース(1年6ヶ月)を受講し始めました。高齢犬には優しい治療であろうことと、まだまだ鍼灸治療のできる獣医師が少なかったので勉強してみたいと思ったのでした。研究所が休みの日曜日に日本獣医畜産大学(現、日本獣医生命科学大学)へ通いました。

病理学から小動物臨床へ

そして、私自身の病理学への思いを断ち切る時間も必要でした。ちょうどその頃、それまでになくこだわりたい研究材料に出会ったばかりだったので、何とかそれは形にしたいと思っていました。しかし残念ながら、論文を1編書き終わったところで研究所を辞めることにしたのでした。そういう意味では非常に心残りではありましたが、娘が小学校に入学するちょうど良い機会でしたので、思い切って小動物臨床へ方向転換したのでした。 この時、妹は訓練士の学校を卒業し、富山市内の動物病院で動物看護師として仕事をするようになっていました。

小動物臨床への転向 臨床獣医師としての基礎を学ぶ

小動物臨床への転向は、私自身の覚悟も必要でしたが、家族にとっても覚悟の必要な、一大決心でした。 「修行する期限は3年間」 という主人との約束で、私はアトムどうぶつ病院で実習することになりました。 アトム院長は私と同じ脱サラ組で、しかも同じような年齢のお子さんがいらっしゃったので私の状況もよく理解して下さって、私には非常に有難かったです。アトム院長から教わったことは、限られた時間の中でいかに頭に体にたたきこむか。アトム院長のすることは自分がやるつもりになって一生懸命見て、飼い主様に話すことを一生懸命聞いて、それが1番の勉強でした。

そして、開業したら最初は全部自分でやらなければいけないのだから、まずは動物看護師の仕事もきちんとできなければいけない、飼い主様とコミュニケーションがとれなければいけないと教えられました。獣医師としての技術は必ず後からついて来るからと。臨床獣医師としての基礎はアトムどうぶつ病院で学んだと思います。

大野犬猫病院で勉強 思いやり・気持ちの暖かさに気づく

半年後、アトム院長の紹介で大野犬猫病院で勉強することになりました。大野犬猫病院は獣医師が5人の、地域では大きな病院で、私はまず動物看護師に付いて院内のいろんな作業を教えてもらいました。そういう中で気づいたのが思いやり・気持ちの暖かさでした。

私を指導してくれた動物看護師は、私が何か作業をしているところを通りかかったり、作業を終えると必ず 「お疲れ様です」「ありがとうございます」と声をかけてくれました。気づくと先生方も他の動物看護師もみんなそんなふうに声をかけてくれていました。それは、年上の新人に気を使ってのことだったのかもしれませんが、たいへん清々しく気持ちの良いもので、頑張ろうという気持ちにもさせてくれました。

本来ならば、昼夜問わずに勉強に明け暮れる時期だったのでしょうが、通勤が片道1時間かかる上に体力的にも厳しかったですね、なかなか家では勉強できず・・・手っ取り早いのは何でも他の先生に聞いて覚えることでした。そして、初めてやることにはなるべく苦手意識を持たないよう心がけました。

大野犬猫病院 2~3年目

修行も2年目になると少し周りを見る余裕が生まれてきました。3年目には少しづつ自信が持てるようになり、飼い主様とのコミュニケーションも上手くとれるようになってきました。有難いことに、「荒井先生でお願いします」とおっしゃって下さる飼い主様もいらっしゃいました。大野犬猫病院での財産は、何と言っても臨床獣医師としての知識・技術を身につけたことが1番ですが、一緒に仕事をする仲間であったり、飼い主様だったり・・・人とのふれあい、思いやりの大切さでもあったと思います。

こんな年齢の新人を受け入れて下さった大野院長、扱いにくい新人にも関わらずいつも暖かく接して下さったスタッフの皆さんには本当に心から感謝致します。

夢への第一歩 あらい犬猫病院を開院

平成18年3月末、3年半勉強した大野犬猫病院を退職し、平成18年5月1日に富山市婦中町に念願のあらい犬猫病院を開院致しました。
  私は魚津市で生まれ育ちましたので、富山市婦中町はまったく初めての土地です。そんな初めてのところで開院する不安はなかったのかと言うと、やはりまったく不安がなかった訳ではありません。が、不安よりも、「私の夢」への第一歩をついにスタートさせたという喜びの方がむしろ大きく・・・、これからの希望の方が楽しみでならないのが正直な気持ちでした。

最後に私の夢を理解し、あたたかく見守ってくれている主人と、
ずっとたくさんの我慢をしてくれて、私を応援してくれている娘、
遠くから心配してくれている息子夫婦、
限りなく応援してくれている両親、
そして、一番の理解者であり
一緒に頑張ってくれている妹に心から感謝します。